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まもなく当時の技術担当副社長の松本清の部屋を訪ね、その旨説明した。
「それでよいだろう」・松本副社長も異議をはさまなかった.1986年2月、Sは今度は正式にSKを呼び、「新チームの主査は君で行く。 日本のクルマは見なくてよい。
米国にジャスト・フィットするクルマをつくってほしい。 ただ89年5月までにすべてを完成させてほしい」と告げた。
「ぜひやらせていただきたいと思います。 ありがとうございます」SKはまるで少年のように目を輝やかせて礼を言った。

「やった」という会心の笑みが溢れ、ムラムラとやる気が起きてきた。 ただ、残された開発期間は3年3カ月しかなかった。
全く従来とは違う発想のクルマを開発する新車の開発期間としては非常に短い。 こうしてSK主査の仕事が始まった。
この現地工場建設は結局受け入れられ、ケンタッキー州に年間生産能力24万台のT社・モーター・マニュファクチャリング(TMM)が建設され、1986年「カムリ」の現地生産が始まった。 これを受け、第2段階の戦略としてT社の品質を格上げした高級車の開発構想が浮上した。
東郷は次のように回想している。 「当時のT社車は品質の割に安いという買い得感があって、そのイメージで販売実積を伸ばしていた。
もともとT社は、キャデラックやベンツ、BMW、ジャガーといったような、世界のマーケットを対象にした高級車はつくっていないのだから、薄利多売路線で売るしかなかったし、実際、それがヒットしていた。 しかし円高や日米貿易摩擦による日本の自動車メーカーの輸東郷行泰は、米国でT社車をさらに強力に販売するには、米国に独自の工場を建設するとともに、キャデラックやベンツ、BMW、ジャガーのような高級車をつくることが必要だと考えた。
当時、日本車の対米輸出激増に伴い、日本の自動車業界は対米輸出の自主規制を実施するなど、輸出環境が激変。 当初、品質の維持が保証できないとして米国生産に慎重だったT社本社も、現地生産の可能性をめぐって活発な議論をしていた。
この時、東郷は当時T社自動車会長の豊田E二に、自前の工場の必要性を熱心に説き、米国におけるT社車の販売を、それまで日本からの輸入車を中心にした60万、70万台から、一気に100万台の大台に乗せようと目論んだの「新たな米国戦略に沿った高級車の開発構想」を胸に秘めた東郷は、日本に一時帰国してT田E二会長やT田章一郎社長らT社自動車首脳陣に、なぜT社が米国市場に高級車を投入しなければならないか、持論と戦略を建言した。

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